以前、NHKで放送されていた『日本語歳時記・大希林』で、樹木希林演ずる弥勒さんの部屋の書架に恭しく並べられていたのが印象的だった。久世光彦の趣味だろうか。
27巻揃いは古本屋でもわりによく見かけるけれども、この全集は索引がなければ価値が半減する。
江戸を知り尽くした碩学の、生涯をかけた業績がわずか2万円足らずで読めてしまうのだから、こんなお値打ちはない。申し訳ないような勿体無いような、何やら後ろめたい気もするが、まあ現代の日本人の価値観なんてそんなものなのだろう。
DONNIE FRITTS/ONE FOOT IN THE GROOVE

日本盤が出ないCDその3。
この春には既に発売されていたにも関わらず、なんとなく入手しそびれていたドニー・フリッツの通算3作目となるアルバム。
74年に発表された一枚目のソロ・アルバムは、本場マッスル・ショールズ産スワンプ・ロックの大名盤として、廃盤になった後も伝説的に語り継がれてきたが、その彼が長い沈黙の末に新作を引っさげてシーンに復活したのが97年のこと。その2作目も、ダン・ペンやトニー・ジョー・ホワイト、エディー・ヒントンといった馴染みの面々に加え、ウィリー・ネルソンやルシンダ・ウィリアムスなど、新旧のゆかりのミュージシャンが大挙参加した素晴らしい内容だった。
ところが、その後の活躍に期待が寄せられたのも束の間、彼の消息は再びふっつりと途絶えてしまう。
本作に寄せられたコメントによると、2001年には腎臓の移植手術を受けたらしく、どうやら体調が回復するまでとてもレコーディングどころではなかったというのが真相のようだ(2003年頃からオムニバス・アルバムに参加するなど少しずつ活動を再開している様子が窺え始めたものの、いずれも散発的なもので、本格的なカムバックとは言い難かった)。
しかし、兎にも角にもこうして再び彼の元気な声が聴けるようになった事は、贔屓の一人としてとても嬉しい。しかも、ひょっとすると前作をも凌ぐのではないかという充実した仕上りとなれば喜びも一入。この勢いで、初の単独来日公演でも果たしてくれた日には、もう万々歳である。
本作では、満を持したかのように朋友ダン・ペンがプロデュースを担当。といって別段変わったことをしているわけではなく、何の気負いもない、肩の力の抜け切ったような歌と演奏が続く。
前作を初めて聴いた時も、その歌の佇まいが以前と全く変化していないことに驚くと同時に感動を憶えたものだが、その印象は今回も変わらない。あくまでさり気なく、自然体。ユルいと言えば、これほどユルユルの音楽もちょっと珍しい。
オープニングはトニー・ジョーホワイトのファンキーなギターが先導する形でスタートするが、かつてのようなギラギラした緊張感はなく、むしろ牧歌的と言いたくなるほどの、のほほんとしたリラックス・ムードが漂う。そのくつろいだ感じは、今回のアルバム全体を通じて横溢しており、もはや枯淡の境地もここに極まれり。脂っ気というものが見事に抜け落ちていて、まるで上質の豆腐を食べているかのよう。しかし滋味はたっぷりと含まれているから、聴くほどに味わいが増す。
演奏を受け持つのは、スプーナー・オールダムやデヴィッド・フッド、クレイトン・アイヴィら、錚々たる顔ぶれ。コーラスにはビリー・スワンの名前も見える。
新しい試みや派手な演出は一切無い。ただ良い曲と味わい深い演奏、そして決して上手くはないけれども、ほのぼのとした素朴な歌があるだけ。それだけでも十二分に胸に響くものがある。
トム・ダウドもジェリー・ウェクスラーも鬼籍に入ってしまったけれども、それでも尚、往時のサザン・ソウル・シーンを支えた影の立役者がこうして充実した新作を発表し続けてくれる限り、楽しみは尽きない。
書店には文庫の新刊・復刊が平積みされ、テレビタレントが座右の一冊に彼の作品をあげる。
代表作『スローターハウス5』でさえ店頭から姿を消し、辞書を片手にわざわざ原書を読まねばならなかった僕の学生時代には考えられなかったことだ。
優れた作品が、多くの人々に親しまれること自体は喜ばしいには違いないけれども、しかし、こうも盛り上がってしまうと、「ホントかよ・・・」という気分になってくる。
先日も、待望の新刊『追憶のハルマゲドン』が発売されると知って書店に急いだが、店頭に並べられた現物を見て一気に買う気が失せた。タレントの太田某の意味不明な言葉が、帯にでかでかと記されていたからだ。
大袈裟に言うなら、ヴォネガットについて語ることは、人類の良心について語るにも等しい。このような作家は、もう少し繊細に扱って欲しい。
REBECCA MARTIN/GROWING SEASON

日本盤が出ないCDその2。
最近になってようやく朝晩はいくらかしのぎやすくなったが、まるで夏が終わるのを待ちかねたかのように、発売が遅れていたレベッカ・マーティンの新作が出た。
レコーディング自体は2年前には終了していたようなので、必ずしも彼女の現在の姿を十全に伝えるものとは言い切れないところがあるが、それでも待望の新作であることに違いはない。
前作が比較的大所帯での録音だったのに対し、今回は本人も含めて4人という小編成での録音。
彼女自身が意図したかどうかは定かではないけれども、少なくとも表面に現れた材料から判断する限りでは、もう一度初心に立ち返り、自己の原点を見つめ直そうという意思を感じさせるものになっている。そう考えれば、2002年発表の前々作『Middlehope』で大活躍していたギターのカート・ローゼンウィンケルと、夫のラリー・グレナディア(b)が揃って返り咲いているのも不思議ではない。
基本的には前々作〜前作の路線を踏襲したものだから、目を剥くほどの新しい発見はないものの、そのかわり安心して聴いていられる。
曲のクオリティの高さも相変わらずで、いずれもスタンダード級の風格を備えている。
独特の湿り気を帯びたメランコリックな曲が多いが、表情はどこまでもクール。常に覚めた眼差しで自己を対象化しているようなところがある。
部屋中を吐息で満たすような、甘美で官能的な雰囲気に満ち溢れているけれども、ねっとりとまとわりつくようないやらしさはない。むしろ、さらっとして決して重くなり過ぎないのが、ヴォーカリストとしてのこの人の一番の魅力だろうと思う。
珍しくソウルの影響をストレートに表現したものや、カート・ローゼンウィンケルのいつになくロックなギターが炸裂する曲があったりして、意外な一面を見せているのが、まあ新しいと言えば新しい。
しかし、アルバム全体からみれば、ほんの隠し味程度の趣向に留まっていて、決定的に新しい彼女の魅力を引き出しているとは言いがたい。もっと冒険してもいいのではないだろうか。
さて、本作で早すぎる原点回帰を果たしたレベッカ・マーティンが次に向かうのは、一体どんな音楽の地平だろうか。
前作『シンプル・プラン』のインパクトが圧倒的だったため、期待が大きすぎたせいもあるかもしれないが、読み終えて呆然とするような失敗作だった。しかも上・下巻合わせておよそ700頁にも及ぶ大作。帯に記載されたスティーブン・キングの推薦の言葉が虚しい。
しかし、こんなことでいちいち目くじらを立てていたら、エンターテインメントなんかとても読んでいられないのもまた事実。たまにはこんな愚作にもぶつからないと、ホンモノに出会った時の喜びが半減しようというものだ。
盆を過ぎ、猛暑も一段落かと思ったのも束の間、ここへきて再び30度を超える暑さに辟易させられる毎日が続く。例年ならもうとっくに気分もたそがれモードに突入し、耳を傾ける音楽の傾向も様変わりしているはずなのだけれど、今年はいつまでも真夏の気分がどこかで燻り続けているらしく、聴いているものも8月と大して代わり映えがしない。
WALTER BECKER/CIRCUS MONEY

ウォルター・ベッカーの14年ぶりとなる2枚目のソロ・アルバム。
恥ずかしい文化後進国ニッポンでは、これほどの大物アーティストの新譜でさえ国内盤が出る気配がないので、諦めてアメリカ盤を購入した。レコード会社の馬鹿野郎。
94年に発表された前作の評判はあまりかんばしいものではなかったようだが、それでも僕はけっこう気に入って繰り返し聴いた。スティーリー・ダンの音世界とはずいぶん印象が違ったのは確かだけれども、初めて聴くベッカーのヘナヘナしたヴォーカルは妙に刺激的だったし、何よりもアルバム全体に漂うミニマルな感覚が新鮮だった(チベット仏教の声明をコーラスとして使用するなど、死の匂いがプンプンただよう異常なアレンジも個人的にはツボに嵌っていた)。
前作を耳にした誰もがドナルド・フェイゲンのソロ作と比較し、スティーリー・ダンでの二人の役割分担について思いを巡らせたに違いなく、当時の音楽雑誌などでも両者の比較に基づいた記事やレコード評が多かったように記憶する。しかし、どちらかというとスティーリー・ダンに近く、ファンにとっては親しみやすい音楽をやっているフェイゲンに対し、ベッカーの方はよりパーソナルで屈折した所が少なくないせいか、二人の個性の違いをスティーリー・ダンと関連付けて明確に説明できた人はほとんどいないのではないだろうか。
僕も面倒な分析は苦手だし、そんな能力もないと自認しているのだけれど、それでも漠然と感じているのは、スティーリー・ダンの曲におけるメロディーやハーモニーという骨格部分を支えているのがフェイゲンで、ベッカーの個性はむしろ曲の構成や展開の仕方に現れているのではないか、というようなことだ。このことは、キーボードとベースという二人の本来の担当楽器を考えてみても、あながち当たらずとも遠からず、という気がしないでもない。
本作で最も印象に残るのも、曲の旋律よりも構成や展開のユニークさであり、次にどう変化するのか先が読めない楽しさだったりする。
抽象的で曖昧なメロディー・ラインをもつ曲が多く、不機嫌でふてくされたようなヴォーカルはまるで先代・三笑亭可楽の高座のよう。歌唱力そのものも以前よりぐっと増していて、押したり退いたり、絶妙なコントロール加減。ただヘナヘナしているだけではなく、酒場でとぐろを巻く酔っ払いのような不穏な開き直りが加わった。これはもう名人芸と言っていい。
ところがこの調子で陰惨な感じの歌が延々と続くのかと思いきや、思いがけないところで突然、センシュアルと呼びたくなるほど甘く感傷的な和声の展開が待ち構えていたりして肝をつぶす。鮮やかな転調や意表をついた仕掛けが次々と飛び出し、まったく油断がならない。
音数は決して多くないのに何となくとらえどころがなく、徹底して予定調和を排しているから曲の全貌がなかなか掴みきれない。
スティーリー・ダンやフェイゲンの近作でもお馴染みのミュージシャンが大挙参加しており、音の質感は三者とも共通している。
大半の曲がレゲエやダブを下敷きにしているが、『The Royal Scam』の頃のような素直な取り上げ方ではもちろん、ない。R&Bやジャズの要素もないまぜにした、人工的でなんとも胡散臭いアダルト・オリエンテッド・レゲエ。
本人による、地味なくせに耳に残る謎のギター・ソロも、聴いているうちにマゾ的な喜びが湧く。
尚、プロデュースは何かと話題のラリー・クライン。マスタリングはバーニー・グランドマンが担当。音のよさは言うまでもない。
追記:UK盤はボーナス・トラック収録。



