趣味的音楽生活
リスナー歴20余年の音楽好きが、ひょっとすると住めば都かもしれない地方都市ここ岡山から、ジャンルを問わずその時々で気に入った作品を紹介いたします。アメリカンロックやSSW、ジャズから民謡、落語まで。気分次第で何でもアリ。
ATTA ISAACS/ATTA
質素倹約を旨とする我が家でも、夏ともなれば鰻を食べに出かけることもある。
行くのはいつも、岡山市曽根にある老舗の「くりはら」である。
同居人が精をつけたいと言うので、週末の夜に約一年ぶりに店を訪ねることにした。

客が多いのは覚悟していたが、この日はたまたまタイミングがよかったのか、30分も待たずに席に通されて一安心。丼と定食をそれぞれ注文する。
この店では、客の注文を聞いてから焼き始めるので、ここからさらに数十分は時間を持て余すことになる。
本当なら漬物でも持ってきてもらって、ちびちび冷酒なんかやっていれば、丁度いい頃合に鰻が焼き上がって来るのだが、車を運転しているのでそういうわけにもいかない。昔から鰻屋の漬物が旨いと言われるのはそういう訳があってのことだから、ここで酒が飲めないとなると大幅に楽しみが殺がれるのだけれど、こればっかりは仕方がない。持参したハインラインの文庫本を読みながら鰻を待つ。

料理が運ばれてきたのはおよそ15分後。
ほっこり焼けた鰻から香ばしいタレの風味が立ち昇り、矢も楯もたまらず山椒をふりかけていただく。
やわらかく、脂がしっかり乗っていて、口の中でほろほろと身が崩れる。
今年の鰻も、しみじみと旨かった。

ところでうちの同居人、精をつけて一体どうするつもりだろう?
不安だ。

ATTA ISAACS/ATTA
ATTA ISAACS/ATTA

ハワイアン・スラック・キー・ギターの名手、アッタ・アイザックス唯一の単独ソロ名義のアルバムが、新星堂のレーベルから世界に先駆けてCD化された。ハワイ音楽贔屓の間では、昔から名作として語り継がれてきたアルバムだけに、まさしく待望のCD化と言っていい。

アッタ・アイザックスと言えば、同じくハワイ音楽の巨星ギャビー・パヒヌイの朋友としても知られるが、一般的な西欧圏の音楽好きの間にその名が轟いたのは、ライ・クーダーのアルバム『チキン・スキン・ミュージック』を通じてだろう。そこではギャビーともどもハワイ現地でのセッションに参加し、カントリー曲やジャズをライ・クーダー流に解釈し直したハワイアンを、達者な演奏で味わい深く聴かせていた。
そのフォーキーで尚且つジャジー、時にモダンと言ってもいいぐらいの感覚は、従来、ムード音楽の一種程度にしか認識されていなかったハワイアンに対するイメージを一新するほど新鮮で、日本の先進的なロック・ファンの中にも衝撃を受けた人が少なくないと言われる。
僕なんかもご多分に洩れず、このアルバムで、ギャビーとアッタの名前を脳裏に刻み込まれたリスナーの一人で、以来、ハワイ音楽の幅広く奥深い魅力探訪の旅に誘われ、今日に至っている。

ハワイ音楽の名門の家に生まれ、若いときから卓越したギターの腕前に恵まれながらも、生涯を通じてほぼサイドマンに徹したというアッタであるだけに、珍しく自身が表舞台に立った本作の存在がとても貴重なものに思えてくる。
ジャケットを見ると、今まさに水平線に沈まんとする夕陽を背景にたたずむ、オバさん顔をしたアッタの表情がとてもいい。中身を聴く前から既に期待十分。手にしたギターで一体どんな音色を奏でてくれるのかと、胸がふくらむ。
録音メンバーは、アッタ本人のギター(12弦ギターを多用)のほか、親族のノーマン・アイザックスによるベース、アルバート・カアイラウJr.とハロルド・ハクオレのギターが加わった、シンプルでアコースティックな編成。ゴテゴテと派手なアレンジで飾り立てるのではなく、ギター3本のアンサンブルを中心に聴かせようという、ストイックな潔さがうれしい。ヴォーカルはなく、全篇インストである。

アルバムは、「Lei Ohaoha」で優雅に幕を開ける。冒頭から12弦ギターらしき澄みきったシャラシャラの音色が耳に心地良い。あたかも偏西風にそよぐパームツリーの姿が髣髴するような音と演奏。
1929年生まれのアッタは、ハワイの中でもアメリカ本土のジャズの黄金時代の空気をたっぷりと吸収して育った世代に属し、演奏スタイルもジャズの影響を少なからず受けていることが指摘されるが、2曲目の「Kohala March」を聴けば、成る程さもありなんという気がする。とにかく演奏が軽快そのもので、見事にスウィングする。ジャグ・バンドにも通ずる陽気なナンバーだが、全員の呼吸がピッタリで、一糸乱れぬアンサンブルの妙には驚かされる。
その他の曲も含め、全篇にわたって名人芸的な美しいギターのアンサンブルが繰り広げられ、何度聴いても飽きるということがない。頬を撫でるそよ風のような音色に聞き惚れているうちに全12曲29分があっという間に過ぎ去ってしまい、再び再生ボタンを押すということの繰り返しだ。
ギャビー・パヒヌイとのスタイルの比較などについては、勉強不足の僕には判断のつきかねる所も多々あるが、それでもギャビーの演奏がどこかフォーク的な叙情と力強さ湛えたものであるのに対し、アッタの方はより繊細かつジャジーな雰囲気であることは何となく理解できる。
個性の違う二人が、生前互いのスタイルを尊重し合いながらセッションを重ねたのも、そのことでより幅広い音楽性を獲得できることに両者が気付いていたからかもしれない。

録音状態が必ずしも万全とは言いがたいのが難点と言えば難点だが、そんなことは中身の充実度とは全く関係がない。名湯に浸かるがごとく、ハワイの豊饒な音世界に浸れる至福の一枚。

テーマ:洋楽 - ジャンル:音楽

CDはどこへ行く
ちょっと古い話題になるけれども、『ミュージック・マガジン』誌今月号の特集、「CDはどこへ行く」は興味深い内容でした。
同誌によると、iPodに代表される携帯音楽プレイヤーや着うたフルなどのデータ配信の興隆をよそに、CDそのものの売上は98年をピークに減少の一途を辿っているらしく、一部ではフォーマットとしての存続すら危ぶまれているという。
僕のように、アートワークも含めたパッケージとしてのLPやCDという形態に長年馴染んできた者にとっては俄かには信じがたい話だし、仮にそう遠くない将来、本当にダウンロードという形でしか音楽を享受できなくなるとしたら、おそろしく興醒めなことだと思う。

一方で、実は海外ではこのところ、昔から良心的な音楽を発表し続けてきたベテラン・アーティストによる新作ラッシュが続いているのだが、数年前なら(たとえインディーズに近い形であっても)当然国内盤が発売されてしかるべき作品であっても、なぜか日本での発売は見送られるという例が散見される。
これもCDの売上げ不振の影響の一つの表れなのだとしたら、ずいぶん残念な話だ。

CDが売れないと一口に言っても、そこには様々な理由があるのだろう。
ただ、話を過去のカタログの再発に絞って言うなら、僕なんかでも思い当たることが無いわけでもない。
今回、たまたまその典型的な例を見つけたので挙げておこう。

鈴木茂ヒストリーbox
鈴木茂ヒストリーbox


はっぴいえんど解散後、鈴木茂がクラウン・レコードに残した5枚のオリジナル・アルバムを新たにリマスタリング。「貴重な」ライブ音源と「レアな」未発表音源をあつめたボーナス・ディスクを含む全6枚をボックス仕様、限定生産で発売するというもの。ちなみに税込み9千円だそうです。

ま、それはそれでいいのだが、問題はこの中に含まれている75年のファースト・ソロ・アルバム『BAND WAGON』の扱いだ。
アナログ盤はさておくとして、CD時代が到来してからというもの、一体このアルバム、今までに何度、体裁を変えて再発売され続けてきただろう。

名作であることは十分に承知している。日本のロックを代表する名盤として、発表当時も今も世代を越えて多くの支持を集め続けていることもわかる。その当時としては画期的なLA録音、しかも絶頂期のリトル・フィートのメンバーまで参加している力作であることも知っています。
しかしいくら内容が優れていても、同じ作品をあの手この手で売りつけようとするレコード会社の営業方針の前にあっては、そんな誉れもどこへやら。露骨な商売のための一商品、熱心なファンの財布の中身を当て込んだ消費の対象になり果ててしまっている。

さらにおかしいのは、最近は体裁を変えて再発売される度に、鈴木茂本人がマスタリングを監修したり、リミックスしてみたり、新音源を提供したり・・・。まるで自分から進んで一連の再発売に協力しているかのような力の入れようなのだ。
アーティスト本人がファンが飛びつきそうなエサをばら撒いている。しかも小出しに。
これは一体どういうことなのか。

実際に売れるんだからしょうがないじゃないかと言われれば返す言葉も無いが、その一方で、どんどん心が離れていってしまっているというファンも少なくないだろう。
それとも、まさか鈴木茂ほどのミュージシャンが、過去にしがみついて行かねば生きていけないとでも言うのだろうか。

過去のカタログを尊重し、できるだけ良い状態で聴いてもらいたいという姿勢は理解できる。
しかし、わずか数年の間でコロコロと音質やら販売形態やらが二転三転するのは明らかに計画性を欠いているし、いちいちそれに振り回されるファンにとっては迷惑千万な話だ。或いは、もし万が一、周到な計画のもとにこういう経緯を辿っているのだとしたら、極めてタチが悪いと言わざるを得ない。


この作品に限らず、リイシューCDに関してはこの十数年来、大なり小なり各レコード会社ともに同じような商売を行ってきた。

最初はとりあえずストレート・リイシュー(あの名作が奇跡のCD化!)。

→数年後にボーナス・トラックを加えて再発売(未発表音源を追加して装いも新たに登場!)。

→さらに数年後に、レコード会社独自のマスタリング技術で音質が向上(○○コーディング採用!)。

→大物アーティストであればボックス・セットが発売。未発表音源やグッズが追加される(あの名作の数々を一挙にコンパイル!豪華特典つき限定版!)。

→これで終わりかと思いきや、さらに数年後に今度は紙ジャケット化。しかし、どういうわけか「オリジナルに忠実な形を尊重しました」などという謳い文句でボーナス・トラックは外される(待望の初の紙ジャケット化!)。

→数年後にやっぱりボーナス・トラックを加えて再発売(なぜか、前回とボーナス・トラックの内容が微妙に違っていたりする)。

→突如、限定発売だったはずの数年前のボックス・セットが再登場したり(ファンの熱い声に応えてここに復活!)。

→24ビット・デジタル・リマスタリングで新装発売(もうそろそろ書くのがイヤになってきた)。

→SACDでも出してみたり(当然、ボーナス・トラックは無い)。

→最近じゃSHMCDですか?

→ここまできて振り出しに戻り、最初のフォーマットで廉価盤が登場(これまでの歩みは一体何?)。

→以下、この調子でリスナーが愛想をつかすまで延々と続く・・・。


ことにジャズの世界ではこういう傾向が激しい。激しすぎて、もうどの作品をどのタイミングで買えば一番いいのか、買い手にもわけがわからなくなってしまっている。
僕なんかはジャズに関しては、よほどの例外を除いてはとうの昔に日本盤を買うことを手控えている。そのほうが、レコード会社の思惑にあれこれ惑わされ、何度も同じタイトルの買い替えを迫られるよりは、精神衛生上もずっといい。
買い替えを当て込んでいるのなら、せめてメーカーは旧商品の下取りに応じたらどうか。コンピュータ・ソフトの世界では、無償アップグレードや、バージョン・アップに伴なう廉価なダウンロード販売は今や当たり前だろう。

このスパイラルから抜け出すのは、実は簡単である。
そのアーティストの熱心なファンを自認することをやめてしまえばいいのだ。
いくら思い入れのあるアーティストでも、所詮は他人。自分の実人生とは、全く関わりの無い人にすぎない。
そこを勘違いして、妙に義理立てしようとしてみたり、フェティシズムにとり憑かれてしまうと無理が生じる。
まあ、これだけ露骨な商魂を見せつけられては、自然に熱も冷めるのが正常な感覚というものでしょう。
実際、今回取り上げた鈴木茂にしても、長年に渡るかなり熱心だったはずのファンの一人を、この通りなくしてしまっている。
今までお世話になりました。なんか悲しいなあ・・・。

CDの売上げ減少の原因は他にもいろいろあるだろうが、このようなレコード会社のあからさまな商売のやり方もその一つであることには違いないだろうと思う。
いずれにしても、そうした諸々のとばっちりを食うのは我々リスナー自身でもあるわけだし、それに対抗するほとんど唯一の手段は、必要の無いものは断固として買わないという至極あたりまえの姿勢だろうと思う。
おまけ目当てに駄菓子に群がるような幼児性からは、そろそろ抜け出したほうがいい。

思えば、CCCD騒動の時もそうだった。日本のレコード会社は、ビートルズのアルバムでさえコピーコントロールCDという似非CD仕様での発売を断行したのだった。おかげで『LET IT BE...NAKED』は、僕が持っている彼らのCDの中で唯一、そして初めての輸入盤ということになった。そりゃ国内盤の売上げも落ちるだろう。

別に不買運動を煽っているわけじゃないけども、リスナー自身も、もう一度消費者としての原点に立ち返る必要があるんじゃないでしょうか?
そしてそのことが、本当の意味での良心的な商品の発売につながり、長い目で見れば売上げの低下に歯止めをかけることにも結びついていくのではないでしょうか?
もちろん、お金が有り余って困っているという、うらやましい境遇にあるヒトなら話は別ですが。

CD一枚買うのも、ずいぶん面倒なことになったものです。
登川誠仁/酔虎自在
少し時間ができたので、この機会に普通二輪の免許を取っておこうと教習所に通い始めたのが2週間とちょっと前。何とか検定にも合格し、晴れて中型バイクにも乗れる身分になりました。

今日はその免許切り替えのために、久しぶりに岡山県運転免許センターに行ったのだけど、その無意味にゴージャスかつ居丈高な印象の建造物にあらためて驚き呆れることしきり。
仮にも地球温暖化対策が協議されているサミットの真っ最中に、昼間から無駄な照明をそこらじゅう煌々と点けっ放しにして、一体何を考えているんでしょう?これが財政危機宣言を出す自治体の建物か?

新しい免許が発行されるまでの間、ロビーのモニターでは洞爺湖サミット総括の速報が映し出されていた。
大した内容でもないことを、いかにももっともらしく語る総理のしたり顔にももう飽きあきした。
我々が暮らしているのは何だかとっても空虚な国ですね、ほんとに。

登川誠仁/酔虎自在
登川誠仁/酔虎自在


現代の沖縄民謡界を代表する唄者である、セイ小(せいぐわぁー)こと登川誠仁の6年ぶりとなるオリジナル・ソロ・アルバム。
スタンダードとも言うべき伝統的な沖縄民謡の数々に交え、本人の作詞作曲によるオリジナルも含む全14曲が収められている。

本作録音時のセイ小は75才。
レコーディング直前まで入退院を繰り返すなど、必ずしも万全な体調とは言えなかったようだが、出来上がった作品の完成度は素晴らしく高い。何なら2000年以降に発表された作品に限定すれば、今までの最高傑作と言ってもいいかもしれない。それほど力のこもったアルバムであり、歌い手の気力の充実ぶりを伝える内容となっている。

まず何よりも、本人の声の張りが全く失われていないどころか、ひょっとすると以前にも増して艶っぽくなったのではないかと思わせる程の、力強く、融通無碍な歌いっぷりが印象的。
「枯れた」とか、「燻し銀の」などという言葉は、事この人に関しては全く似つかわしくない。いくつになっても好色そうで生々しく、やんちゃな感じを失わないのは尊敬に値する。

選曲もいい。
前作の『スタンド!』が比較的トラディショナルなナンバーに偏った内容で、どちらかと言うと歌詞に重要なポイントが置かれていたのに対し、本作は曲そのものの持つ原初的なパワーや演奏のグルーヴを存分に聴かせることに力が注がれているような気がする。
沖縄本島で親しまれてきた曲はもちろん、八重山に伝わる民謡からも幅広く選曲されているが、いずれも歌詞が改変されていたり、登川流に一捻りしたアレンジが施されており、なかなか一筋縄ではいかない。
その合間に挿入されるオリジナル曲も、伝統曲と何の違和感もなく見事に調和しており、時代を軽々と超越する歌の逞しさに溢れている。
それらのいずれもが聴き手を歌の世界に引きずり込み、じっくりと熱狂させ、或いは陶然とさせるだけの力を秘めている。
特に、歌詞の異なるものが数パターン収められている口説(くどぅち、もしくは、くどき。ヤマトの七五調の詞を沖縄の曲に乗せたもの。基本的に似たメロディーを持つものが多い)は、その単純だが力強い旋律を繰り返す三線のグルーヴが心地良く、いつまでも聴き飽きない。

前作に引き続き、コーラスで二人のお孫さんも参加。こんなところも何のこだわりもなく、実にアッケラカンとしている。
また、若いお弟子さんたちが絶妙なサポートぶりを聴かせるのもすがすがしい。中でもまだ十代という仲宗根創とは、かつて初々しいボーイ・ソプラノと超絶技巧の三線の早弾きで我々の度肝を抜いた、あの仲宗根少年のことだろうか?いつの間にか歌いまわしも声質も師匠ソックリになっていて驚かされる。将来が楽しみな逸材と見た。

ここには、かつて三線(六線)の早弾きで鳴らし、沖縄のジミヘンと呼ばれた登川誠仁の姿はない。
ただ、年輪を重ね、今まで以上に自然体で歌に取り組むセイ小の、身体全体から滲み出る滋味みたいなものが満ち溢れている。

まだまだ歌への想いと創作意欲にはいささかも衰えを感じさせないセイ小。
無理をせず、末永くその歌声を聴かせて欲しい。

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