
不況の影響で世界中の音楽シーンが停滞する中、地味ながら良質な作品を世に送り出し続けているのがECMレコード。もっとも、マンフレッド・アイヒャーが仙人みたいな人だから、浮き世離れも当然か。
昨年発表された本作も、入手以来繰り返し聴いている一枚。
ケティル・ビョルンスタのアルバムは何枚か所有しているが、いずれもイメージの喚起力に満ちたものばかりで、まるでヨーロッパ映画のサウンドトラックのよう。ことにチェロのデヴィッド・ダーリングと組んだ一連の作品は、ぎりぎりまで音を削ぎ落し、音符の一つひとつを磨き上げた、水墨画のような世界。ピアノの音色にも婉然たる響きがあった。
本作もそうした作風の延長上にあるものだが、チェロがヴィオラ(ラース・アンダース・トムター)に変わり、女性ヴォーカルをフィーチャーしているのが新しい。
前半を占めるのは「北欧の歌 四篇」(国内盤表記による)と題された組曲風の作品。30年にわたって書き溜めた曲がまとめられているが、時間の隔たりを微塵も感じさせない統一感にまず驚く。ランディ・ステーネのメゾ・ソプラノはクラシックの発声によるものだが、ノルウェー語の響きが心地よく、包み込まれるような母性のあたたかさにあふれている。ひたすら主旋律のヴァリエーションを繰り返すピアノとヴィオラは、あくまで歌伴に徹し、ヴォーカルを際立たせる目的にのみ専念しているような印象を受ける。4曲いずれも、たおやかでスケールの大きいメロディが美しい。
後半は英国の詩人ジョン・ダンの詩に曲をつけたもので、連作歌曲の体裁をとっている。こちらも穏やかなメロディが印象的なものばかりで、陰影に富んだ複雑な響きに陶然とさせられる。
若手の躍進著しい昨今のECMだが、どっこいベテランも負けていない。ジャズもクラシックもない、前人未到の枯淡の境地に突入したケティル・ビョルンスタに脱帽です。
がしかし、この間何も聴いていなかったわけでは、もちろん無い。むしろ、かつてないほど充実したリスニング・ライフを体験し、豊潤な音世界にすっかり心奪われていたという方が正しい。
Glenn Gould /The Complete Original Jacket Collection

それほど鮮烈だったのが、ここに挙げるグレン・グールドのオリジナル紙ジャケット・コレクション。インタビューや、『イノック・アーデン』の朗読(クロード・レインズ!)の伴奏、サウンドトラック(『スローターハウス5』!)なども含め、CBS/コロムビアから発表された全ての音源を網羅した堂々の80枚組。2007年に発売されるや否や、あっという間に品切れとなり、以来、自分には縁がなかったものと入手は半ばあきらめていたのだが、ひょんなことからフランスのamazonにわずかながら在庫があることを知って速攻でオーダー、晴れてクリスマスの前には現物と対面することができた。
何と言っても圧倒的なのはそのボリューム。
毎日2枚ずつ聴いたとしても、全てを聴き通すにはひと月以上かかる計算になる。厳しい審美眼によって選び抜かれた楽曲と、人類による20世紀最高の演奏が、これでもかというくらいぎっしり詰まっている。しかも、グレン・グールドほどの演奏家であっても本作が出るまで未CD化だったオリジナル盤は結構な数に上り、未だにこの箱でしか聴けない作品も少なくない。
いずれも名演などという言葉ではとても言い尽くせない演奏ばかりだが、とにかくテンションの高さが尋常ではない。速射砲のように音符が繰り出される『ゴールドベルク変奏曲』や、不安な和声に満ちたシェーンベルクの曲はもちろんだが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタやブラームスの小品なども弛緩したところが微塵も感じられない。隅々まで神経が張り詰めた演奏は、聴き手に伝わるイメージの純度と解像度が極めて高く、各小節の有機的な連関や曲の全体像が沁み込むように頭に入ってくる。おかげで途中で気を逸らすこともできず、1曲聴き終える頃にはすっかりクタクタである。しかもその疲労感がまたすこぶる心地いい。この高揚した感じは、最上のロックを聴いた時の気分と全く同質のものだ。これほどスリリングなクラシック音楽も珍しい。
個人の全集を読み通すことは、作家の半生を追体験することであると同時に、一方でその人物の死へと至る過程を辿る行為でもある。谷崎潤一郎然り、グレン・グールドもまた然り。その途中で得られる発見や気付きは、個々の作品にあたるだけでは決して得ることのできないものだ。
あまりに大量の情報が凝縮されているせいか、これさえあれば当分の間はほかに何も聴かなくても平気な気がしてくるからおそろしい。
齢アラフォーにして、これほど心を揺すぶられる音楽に巡り会えるとは想像もしていなかった。今年もこの調子でブワーッといきたいものです。
このごろ脚光を集めつつあるブラームスの交響曲が演目に予定されていたこともあり、何としても観に行きたかったのだけれど、生憎と早い段階で予定が入ってしまい、断念せざるを得なかった(チケットの売れ行きを心配していたが、後日、コンサートに足を運んだ知人に聞くところによると、会場はほぼ満席に近かったようで一安心。ただし、普段は音楽などとは縁遠い生活を送っていそうなセレブな方々が大半を占めていたようですが)。
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/マーラー“交響曲 第5番 嬰ハ短調”

今回はブラームスだったが、3年前のベルリン・フィル岡山公演ではマーラーの交響曲第5番が取り上げられていた。ちょうどこの来日にタイミングを合わせ、ラトルのベルリン・フィル音楽監督就任記念コンサートでの演奏(2002年)が廉価版DVDで再発されたので、この機会に彼の演奏を観ておくのも悪くないと思い、手に入れた。
マーラーの5番に関しては、既に小林研一郎とチェコ・フィルのDVDも所有していて、何度か繰り返し観ている。定番のバーンスタインのDVDも市販されているが、やはり見ていて圧倒的に楽しいのはコバケンのほうだろう。第一楽章の悲愴感に満ちた重々しい主題や第二楽章前半の猛々しさなどは、彼の全身を使った情熱的なコンダクトぶりと、感情をむき出しにしたあまりにも無防備な表情を観ることによって、その味わいが倍加する。まさに炎のコバケン。世界に誇るべき顔であり、名演である。
一方、ラトルのマーラーだが、これまた素晴らしい演奏で素直に感動した。彼の楽曲に対するアプローチは緻密かつ分析的だということがよく言われるが、それでいて決して神経質な印象を与えないところがいい。演奏の表情は明朗快活であり、マーラーの複雑怪奇な作風とはとても相性が良さそうには思えないのだが、実際に聴いてみると不思議なくらいしっくり来る。
第一楽章の葬送行進曲は若干テンポが速い気もするが、弦の響きがきわめて濃厚でテンションが高い。コントラバスの唸りも実に生々しく、トゥッティはあたかも大怪獣の陰鬱な咆哮のよう。特にクラーゲントと指示された終盤のくだりは、オーケストラの悲痛な叫びが大地を揺るがさんばかりで圧倒される(ただし、映像はここで大ロングに退いてしまい、肝心なところで感興を削ぐ失敗を犯している)。
第二楽章は、その激しすぎる展開がどうにも肌に合わず、今までどこがいいのかさっぱりわからない部分でもあったのだが、本作によってその認識が覆された。ラトルの明晰な演奏は曲の骨格を際立たせ、巧緻に組み立てられた構成の美しさを強く印象づけるものになっている。本作最大の発見。
続く第三楽章は、首席ホルン奏者を指揮台のすぐそばに立たせ、まるでホルン協奏曲のような趣向で演奏している点が珍しい。おかげで視覚的にも音響的にもホルンの存在が強調され、牧歌的な雰囲気が色濃い演奏になっている。マーラー本人も、このスケルツォが全篇を通じて最も厄介な部分だと認めている通り、長大で捉えどころがなく、とっ散らかった印象を受けるが、それでもラトルはこの難所から最良の成果をひきだそうと健闘している。のどかなテーマと不吉な調子が入れ替わり立ち代り現れては消え、それが聴き手に言い知れない不安を与える。そのあたりの効果をラトルは十分に計算に入れているようで、曲が進むほどに、まるで梯子を外されたような不安定で落ち着かない気分を味わうことになる。ほとんど拷問であり、次に控えている第四楽章の平安をひたすら渇仰しつつ、宙ぶらりんな気持ちを持て余し続けねばならない。全く何という地獄だろう。
集中力も限界に達し、そろそろ頭の中にとりとめのない想念があれこれと湧き始める頃合を見計って、ようやく第四楽章のアダージェットとなる。この楽章の甘美さはやはり本曲最大の魅力の一つであり、今までの暗く混乱した歩みを一気に断ち切り、全てを浄化する重要な役割を担う。それだけに期待も大きいわけで、いくらほかの楽章の出来がよくても、ここで躓くとすべてがぶち壊しになる危険をはらんでもいる。僕が今まで聴いた中では、シノーポリがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したものに最も愛着があるが、ラトルの演奏も決して悪くない。ハープと弦楽器だけのシンプルな編成ながら、スピードの緩急とダイナミクスの振幅の大きさによって様々に表情が変化する。まさに天上の音楽と呼ぶにふさわしい不滅の名曲。
フィナーレは狂おしいほどの歓喜と病的な喧騒が渦巻き、表面の陽気さとは裏腹に禍々しい雰囲気がたちこめる楽章である。確かに楽想は明るく肯定的なのだが、何となくヤケクソ気味なところが気になってしかたがない。オーケストラが一丸となって高らかに生の勝利を謳いあげるエンディングも、華々しさよりもむしろ毒々しさを感じてしまう。羽目を外した乱痴気騒ぎであり、その底には頽廃が真っ黒な口を開けて横たわっているような気がするのは穿った見方に過ぎるだろうか。後味は決してよくない(特典映像として収録されたインタビューを見ると、ラトル自身は最終楽章を完全にポジティブなものとして捉えていることがわかる)。
このDVDは、弦のテクスチャーと金管の響きが実に生々しく収録されており、曲の構成を知悉したカメラワークの素晴らしさと相俟って、各パートの役割が的確に捉えられているのが最大の特長と言えようか。ベルリン・フィルの演奏も非の打ち所がなく、終始、張り詰めた緊張感が持続する。
ティンパニや小太鼓などのパーカッションの活躍ぶりも、映像で見ると迫力がまるで違う。CDだけではとてもここまでの説得力は保持し得なかっただろう。
今年はカラヤン生誕100年周年ということもあり、ベルリン・フィルの人気が世界中で再燃している。
せっかくだからこの年の瀬はフルトヴェングラーの第九など聴いて過ごすのもいいかもしれない。



