前作『シンプル・プラン』のインパクトが圧倒的だったため、期待が大きすぎたせいもあるかもしれないが、読み終えて呆然とするような失敗作だった。しかも上・下巻合わせておよそ700頁にも及ぶ大作。帯に記載されたスティーブン・キングの推薦の言葉が虚しい。
しかし、こんなことでいちいち目くじらを立てていたら、エンターテインメントなんかとても読んでいられないのもまた事実。たまにはこんな愚作にもぶつからないと、ホンモノに出会った時の喜びが半減しようというものだ。
盆を過ぎ、猛暑も一段落かと思ったのも束の間、ここへきて再び30度を超える暑さに辟易させられる毎日が続く。例年ならもうとっくに気分もたそがれモードに突入し、耳を傾ける音楽の傾向も様変わりしているはずなのだけれど、今年はいつまでも真夏の気分がどこかで燻り続けているらしく、聴いているものも8月と大して代わり映えがしない。
WALTER BECKER/CIRCUS MONEY

ウォルター・ベッカーの14年ぶりとなる2枚目のソロ・アルバム。
恥ずかしい文化後進国ニッポンでは、これほどの大物アーティストの新譜でさえ国内盤が出る気配がないので、諦めてアメリカ盤を購入した。レコード会社の馬鹿野郎。
94年に発表された前作の評判はあまりかんばしいものではなかったようだが、それでも僕はけっこう気に入って繰り返し聴いた。スティーリー・ダンの音世界とはずいぶん印象が違ったのは確かだけれども、初めて聴くベッカーのヘナヘナしたヴォーカルは妙に刺激的だったし、何よりもアルバム全体に漂うミニマルな感覚が新鮮だった(チベット仏教の声明をコーラスとして使用するなど、死の匂いがプンプンただよう異常なアレンジも個人的にはツボに嵌っていた)。
前作を耳にした誰もがドナルド・フェイゲンのソロ作と比較し、スティーリー・ダンでの二人の役割分担について思いを巡らせたに違いなく、当時の音楽雑誌などでも両者の比較に基づいた記事やレコード評が多かったように記憶する。しかし、どちらかというとスティーリー・ダンに近く、ファンにとっては親しみやすい音楽をやっているフェイゲンに対し、ベッカーの方はよりパーソナルで屈折した所が少なくないせいか、二人の個性の違いをスティーリー・ダンと関連付けて明確に説明できた人はほとんどいないのではないだろうか。
僕も面倒な分析は苦手だし、そんな能力もないと自認しているのだけれど、それでも漠然と感じているのは、スティーリー・ダンの曲におけるメロディーやハーモニーという骨格部分を支えているのがフェイゲンで、ベッカーの個性はむしろ曲の構成や展開に現れているのではないか、というようなことだ。このことは、キーボードとベースという二人の本来の担当楽器を考えてみても、あながち当たらずとも遠からず、という気がしないでもない。
本作で最も印象に残るのも、曲の旋律よりも構成や展開のユニークさであり、次にどう変化するのか先が読めない楽しさだったりする。
抽象的で曖昧なメロディー・ラインをもつ曲が多く、不機嫌でふてくされたようなヴォーカルはまるで先代・三笑亭可楽の高座のよう。歌唱力そのものも以前よりぐっと増していて、押したり退いたり、絶妙なコントロール加減。ただヘナヘナしているだけではなく、酒場でとぐろを巻く酔っ払いのような不穏な開き直りが加わった。これはもう名人芸と言っていい。
ところがこの調子で陰惨な感じの歌が延々と続くのかと思いきや、思いがけないところで突然、センシュアルと呼びたくなるほど甘く感傷的な和声の展開が待ち構えていたりして肝をつぶす。鮮やかな転調や意表をついた仕掛けが次々と飛び出し、まったく油断がならない。
音数は決して多くないのに何となくとらえどころがなく、徹底して予定調和を排しているから曲の全貌がなかなか掴みきれない。
スティーリー・ダンやフェイゲンの近作でもお馴染みのミュージシャンが大挙参加しており、音の質感は三者とも共通している。
大半の曲がレゲエやダブを下敷きにしているが、『The Royal Scam』の頃のような素直な取り上げ方ではもちろん、ない。R&Bやジャズの要素もないまぜにした、人工的でなんとも胡散臭いアダルト・オリエンテッド・レゲエ。
本人による、地味なくせに耳に残る謎のギター・ソロも、聴いているうちにマゾ的な喜びが湧く。
尚、プロデュースは何かと話題のラリー・クライン。マスタリングはバーニー・グランドマンが担当。音のよさは言うまでもない。
追記:UK盤はボーナス・トラック収録。
8月6日も9日も、終戦記念日も、民放各局はどこ吹く風。唯一NHKだけが良質なドキュメンタリー番組を放送し続けていたのがせめてもの救いというべきか。
晶文社編集部・編 『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』

60年代から70年代にかけて、映画やジャズ、ミステリーや海外コミックなど、サブカルチャーの幅広い分野にわたって最先端の動向を紹介し続けた、J.Jおじさんこと植草甚一。今年はちょうど生誕100年目にあたるそうで、晶文社からそのアニヴァーサリー・ブックが発売された。
本体は、生前の植草甚一と交流のあった知人や編集者らの回想、彼の影響を受けて育った現代のクリエイターたちによるエッセイ、全国のファンから寄せられたメッセージ、ニューヨーク滞在中に撮影された写真、などによって構成されている。
ざっと目を通しただけの感想だが、生誕100年という事柄それ自体にお祭り騒ぎをするほどの意味があろうはずもなく、かといって『植草甚一スクラップ・ブック 全41巻』の版元である晶文社としては、その販促の観点からも全く無視するのもしのびない・・・というようなわけで、どうも中途半端な企画になってしまったような印象を受けた。
ディレッタンティズムと教養について考察した小野耕世氏の文章などはさすがに興味深く、教えられることも少なくないが、しかしそういう例外を除けば、全体に新しい発見に乏しく、少々物足りなさを覚えてしまう。
執筆者のJ.J氏に寄せる愛情や思い入れは伝わってくるのだけれど、それだけでは敢えてお金を払ってまで読む必要はあまり感じられない。
むしろ、かつて『宝島』誌に掲載されたという8時間にも及ぶロング・インタビュー(をまとめて短縮したもの)の再録の方が、植草甚一本人の話しぶりや呼吸を如実に伝えている点で、よほど意味あるもののように思われた。
話しぶりと言えば、本書には特別付録として植草甚一の肉声を記録したCDが付いていて、実はこれが本体以上に興味深いものになっている。白状すると、これが聴きたくて本書を入手したようなものだ。
僕が植草甚一を知ったのは中学一年の時で、その時には既に故人だったから、肉声を聴くのはこれが初めてである。
いやあ、ずいぶん想像していた雰囲気と感じが違うので、奇妙と言うか何と言うか、最初は少し戸惑ってしまった。谷崎潤一郎の声を聴いた時も衝撃的だったけれども、個人的にはそれ以来のオドロキがありました。
甲高く明るい声音で、意外なほどゆっくりとした口調。
部分的にうまく呂律が回らない所があったりして、少々聴き取りづらい。
それでもずっと耳を傾けていると、「ちょいと」とか、「いっとう最初」とか、随所に昔の東京らしい趣のある言いまわしが出てきて、それがとても心地いい。いかにも東京のモダン・ボーイらしく、この辺り、神戸育ちの淀川長治とは好対照だ。
話している内容自体は、この本は何処そこの古本屋でいくらで買ったとか、日本から持っていったアクサセリーがニューヨークでいくらで売れたとか、日米のボールペンの比較とか、チャールズ・ミンガスはサントリーのウイスキーが大好きだったとか、興味のない人にとってはどうでもいいような事(そうでもないか?)が殆どなのだけれど、それを嬉々として話す語り口に魅了される。
最初は違和感の方が勝っていた肉声だが、聴き進むにつれて次第に写真の面影と声が重なっていって、終いにはとうとうピッタリとくっついてしまった。
朦朧体と言おうか散歩体と言おうか、まるで行き当たりばったりで構成などに頓着しない(ように見える)一筆書きのようなあのユニークな文体は、どうやら植草甚一の普段の話し口調がそのまま再現されたものだったらしい。これからは彼の残した文章を読むたびに、その声が耳元で再現されるような気がする。
梅子夫人のコメントが録音されている部分もあり、植草甚一のような夫と一緒に暮らすことの不自由さと、そのはた迷惑ぶりを長々と訴えているのが可笑しい。案外、こういう身も蓋も無い内輪話が、当の人物の実像を客観的にイメージする上で貴重な証言にならないとも限らないのだ。
かつて、僕はこの人に、退屈の利用法を教わった。
今度久しぶりに、買い物をした帰りに美味いコーヒーを飲みながら、アメリカの新人作家のミステリーでも勉強してみることにしよう。
テーマ:気になる本をチェック!! - ジャンル:本・雑誌
僕にとっての赤塚漫画は、バカボンでもおそ松くんでもなく、『レッツラ・ゴン』でした。
小学生の時、全巻揃えていたのを親に見つかり、そのあんまりな内容が露見して全て処分されてしまったのを思い出す。
当時は悔しくてならず、ほとぼりが冷めるのを待って再びコッソリと買い戻したものでした。
この二代目『レッツラ・ゴン』は、山上たつひこの『半田溶助女狩り』などと並べて、今でも書棚の奥に大切に保管してあります。
みんな次々いなくなるなあ・・・。
TIM HINKLEY/a little bit of SOUL

イギリスのセッション・キーボード・プレイヤーによる初ソロ・アルバム(02)。
年季の入ったキャリアに反し一般的な知名度は決して高い人ではないけれど、にもかかわらず本作が一部の好事家達の注目を集めたのは、そのキラ星のごとく豪華なサポート・メンバーによるところが大きい。
プロデュースは、あのダン・ペンが担当(エンジニアリングとバッキング・ヴォーカルでも参加)。演奏も、おそらくプロデューサーの人脈を動員した結果だろう、スプーナー・オールダムやデヴィッド・フッド、ウェイン・ジャクソンら、往年のマッスル・ショールズやメンフィスのソウル・シーンを支えた名うてのミュージシャン達が参加し、好きな人にはこたえられない布陣となっている。
音の方も、メンバーから予想できる通りの、ふくよかで骨太のサザン・ソウル・フィーリング溢れるものとなっており、とてもイギリス人アーティストの作品とは思えないほど。
特に、小気味よく曲を盛り上げるホーン・セクションの充実ぶりは特筆もの。ファンキーなナンバーからバラードまで、曲想に応じて緩急自在に絶妙なサポートぶりを見せる。
ところで肝心のティム・ヒンクリー本人はと言うと、ヴォーカルはいかにも白人らしく滑らかでやや線が細い感じもあるけれども、随所で炸裂する控え目なシャウトや細かい節回しは実に堂に入ったもの。僕は、そのエモーショナルで明るい声質から、同じくダン・ペンがアルバムをプロデュースしたことがある盲目のカントリー・シンガー、ロニー・ミルサップを連想した。もちろん、ノリノリのピアノもキマっている。
どの曲もそれぞれに聴き応えがあるが、中でもダン・ペンと共作した3曲と、アルヴィン・リー、ジョージ・ハリスンとの共作『Heart and Soul』は出色の出来栄え。
遅すぎたソロ・デビューとは言え、今までに培われた裏方としての経験の蓄積が一挙に花開いたかのような完成度に圧倒される。またそれを可能にしたプロデューサー、ダン・ペンの手腕も大したものと言わなければならない。
いずれの曲もティム・ヒンクリーというミュージシャンの体温と存在感を如実に伝えるものばかりで、高密度・高濃度な充実感に満ちている。
70年代に米南部からLAやイギリスにも飛び火したスワンプ・ロック・ブームだが、その最も良質な部分がこの様な形で受け継がれている事実を目の当たりにすると、なかなか感慨深いものがある。
入手はこちらで。もしくは良心的なレコード屋さんに頼めば仕入れてくれるかな?



